映画『ジョーカー』について

ある一人の男がジョーカーと呼ばれる怪人になるまでの物語、 というのが、映画『ジョーカー』のあらすじだ。この映画は「 本当の悪を見る覚悟はあるか」などと煽る、 うんざりするような広告が打たれている。だが『ジョーカー』 は悪についての話ではない。正義についての話でもない。 そういった意味で、「本当の悪」を見ることはできない。

 

後にジョーカーとなるアーサーは不幸まみれだ。 まるで不幸のごみ箱のように、 アーサーという人間に誰もが不幸をぶち込んでいく。 ぶち込み続けられた不幸が臨界点を超えたとき、 ついに彼はジョーカーに変貌するわけだが、 むしろよく耐えたと思う。

 

アーサーはまともな人間になろうと努力した。夢を持ち、 明るく振舞おうとした。 それはアーサー自身が望んだことでもあった。 だが彼の努力は実ることはない。なぶられ続ける。 はじき出される。彼という存在を、 危ういところでなんとか支えていたものはあっさりと消滅する。 彼の求めに応えるものはない。すべてから、彼は拒絶された。 そのすべてのなかには自分自身も含まれる。  彼はもうアーサーでいることはできない。

 

そうしてどこにもいない自分を一から立ち上げなければならなくな った時、手掛かりになるのは自分の肉体だ。 笑うことを宿命づけられた彼の肉体こそが出発点になる。 新しい自分を立ち上げるにあたって、かつて自分を苦しめた、 こうあるべき、 というまともな人間のための規範はなんの意味ももたない。ネガティブもなければポジティブもない。不幸も幸福もない。 それらの区別はなく、渾然一体として彼の外にある。 そこはたったひとりの、自分だけの世界だ。 すべてを笑う彼にとって、目に映るものすべてが喜劇だ。 彼の前に立つ者は喜劇役者であることを強制される。 そこに現れるのは、演じるものと観るものという関係性だ。 その関係性のなかで、はじめてジョーカーは、 これこそが自分だという姿を手にする。

 

もうジョーカーを笑うものはいない。 舞台の上で繰り広げられる喜劇の、 ジョーカーはたった一人の観客なのだから。